小栗忠順 近代日本の先駆けとなって散った男の物語

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  • Опубликовано: 11 сен 2024
  • 2021年大河ドラマの主人公として注目されている渋沢栄一ですが、渋沢に先駆けて近代日本の礎を築こうとした人物がいました。
    その名は小栗忠順。
    彼は幕末の混乱期にその命を散らしましたが、もし生きていれば間違いなく渋沢と双璧をなした存在となっていたことでしょう。
    一般的には小栗上野介(こうずけのすけ)の名でも知られていますが、彼の残した功績とは何だったのか?その生涯をひも解いていきましょう。
    ~目次~
    1:01 黒船に衝撃を受けた青年期
    4:47 忠順、アメリカへ渡る
    7:11 幕府奉行職を歴任する
    10:59 日本初の西洋式カンパニーを作る
    14:15 崩れゆく幕府と運命をともにする
    18:25 まとめ
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    脚本・監修:歴史じっくり紀行
    #歴史じっくり紀行 #小栗忠順
    ※動画中の地図はカシミール3Dを使用しています。
    www.kashmir3d.com/
    ~画像~
    663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, commons.wikime...
    photo: Qurren (トーク) Taken with Samsung Galaxy J (NTT docomo SC-02F) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, commons.wikime...
    Osamu Suzuki - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, commons.wikime...

Комментарии • 95

  • @abbtk14
    @abbtk14 3 года назад +26

    元々開明的だったにしても、渡米してその先進的な文明を目にしたことで、日本に何が足りず何をせねばならないのか、先々まで理解できたんでしょうね。まさに英傑ですが、なんともやりきれない最後です。

  • @user-lf8ql6gu4f
    @user-lf8ql6gu4f 3 года назад +36

    今、最も見直さなければならない人物の一人でしょうね。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад

      北海道のがらくたロケットとか、フランスに逃げ出してヘラヘラしてる奴とか、あんなんを褒めるようなものだ。

    • @user-hr9dw9iu8n
      @user-hr9dw9iu8n 5 месяцев назад

      小栗って!勝海舟と違って傲慢で他人を見下す性格故、嫌われて最期は処刑!の身でごサンス!
       横須賀製鉄所は先見の明がありましたが、結局借金を返すのに幕府全財産2/3以上、使い果たして幕府の滅亡を早めたとも言えます。

  • @user-nq9po1fb4e
    @user-nq9po1fb4e 3 года назад +13

    旧横須賀製鉄所(現米海軍基地)前に位置する横須賀のヴェルニー公園には小栗忠順の銅像があります。
    幕末期一漁村であった横須賀は、横須賀製鉄所•造船所の建設により発展をしました。今では信じられませんが、軍港となった横須賀は戦前隣の横浜よりも栄えていた時期があったと聞いております。
    小栗が最後住まわれていた群馬県倉渕村(現高崎市)と横須賀市は小栗忠順の縁で姉妹都市となっています。私が横須賀市立の中学生の頃(20年以上前)林間学校として倉渕村に行き小栗忠順の功績を学ぶとともに地元の方と交流をしました。
    徳川慶喜と小栗忠順の意見の違いの背景には、徳川家康より伝えられる「民の平和と幸福のためならいつでも政権を手離せ」という徳川将軍家の思想と、三河武士として家康以来徳川家に仕えてきた小栗家の主君徳川家のためには生命をかけてつかえるという武士道の精神の違いがあるように思います。

    • @user-uj3mo9tp3y
      @user-uj3mo9tp3y Месяц назад

      私も林間学校で倉渕村に行きました。もう35年前の話ですが😅

  • @新井オレンジ
    @新井オレンジ 3 года назад +17

    小栗上野の介偉大な地元のヒーローです!取り上げていただきありがとうございます‼️

  • @user-zv5cr1hj4j
    @user-zv5cr1hj4j 3 года назад +20

    すごい好きな偉人

  • @tllwllwsh2713
    @tllwllwsh2713 3 года назад +26

    上司に恵まれなかった一人の英傑...

  • @yukibebe7
    @yukibebe7 3 года назад +11

    この方は大河ドラマの題材になってもおかしくない人で 明治政府に処刑されていなければ
    参謀総長や総理大臣になってもおかしくないほどの有能な人物です。
    今の横須賀海軍基地があるのは彼が横須賀造船所を作らせたお陰です。
    つくづく惜しい人材でした。

    • @user-mw1su2tp3f
      @user-mw1su2tp3f 11 месяцев назад

      明治政府の総理大臣にはなれないし、ならないだろうけど
      普通に幕府側が勝利して近代政府作ったら100%総理になってたと思う。

  • @yutarider3035
    @yutarider3035 3 года назад +7

    小栗忠順の物語、ありがとうございました。昨年、横須賀に行き、取材をして動画にまとめました。多くの人々の犠牲のもとに、今の私たちがありますね。解説ありがとうございました。

  • @どてかぼちゃ
    @どてかぼちゃ 3 года назад +6

    グンマーです。
    いつも権田の国道を通る度に見かける史跡でしたが、何やった人か知りませんでした。
    知ることが出来て良かったです。
    ありがとうございました!٩(。•ω•。)و

  • @user-lb2cm2se3i
    @user-lb2cm2se3i 3 года назад +15

    惜しい人を無くしたな❗存命なら日本国や明治政府に多大な貢献をしただろうに…

  • @alaindelon2099
    @alaindelon2099 3 года назад +19

    西洋列強の覇権争いが激化する中で自国で国産の物を造る事の重要性にいち早く気付いていた男。

  • @user-ue5yc4wr3o
    @user-ue5yc4wr3o 2 года назад +7

    小栗様とは素晴らしい人だったんだなあ。造船所を蔵にたとえるなんて。生きてほしかった。

  • @user-tf8zi9zl8z
    @user-tf8zi9zl8z 3 года назад +10

    小栗上野介を取り上げていただき、ありがとうございます❗️🙇
    小中学生の歴史の教科書にはのらない人だけに多くの人々に知ってほしい人ですね❗️👍
    確か、栗本さんは、今ではあって当たり前の病院を創設した人でしたよね?🤔

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад +1

      それは違うよ。
      小栗忠順は三村新左衛門と組んで、相場操作をして経済を大混乱させて2人で大儲けをした。その混乱で庶民は万単位で亡くなったであろう。
      更にそのカネで横須賀精錬所、造船所を建設。そこで作り出した軍艦は更に沢山の日本人の血を吸った。
      悪人どころか、悪魔に近い存在だ。

    • @山中達雄-j3p
      @山中達雄-j3p 10 дней назад

      @@kasinsatoru 嘘を言うのはやめろ

  • @user-gh5ri8th5o
    @user-gh5ri8th5o 3 года назад +15

    アメリカに行ったときに
    ネジの力に圧倒され
    日本の遅れや
    自分の考えの甘さを
    痛感させられた
    このエピソードが
    日本の近代化への
    始まり

  • @alaindelon2099
    @alaindelon2099 3 года назад +14

    外国奉行(外務大臣)を任されたり渡米して工業を学んだり人事労務管理の基礎を築いたり対馬
    をロシア軍に一時占領されたときにも直轄地にするべきと進言したり先見の明があった人物。

    • @subuya428
      @subuya428 3 года назад +2

      当時の対馬は日本屈指の攘夷・倒幕の藩なので、もし対馬が幕府の直轄地になったら小栗は史実よりも6年早く殺されていたかもしれませんね。
      実際に対馬を幕府の直轄地にして和泉18万石への移封を画策した対馬藩家老佐須伊織は40数人の藩士などに襲撃され殺害されました。
      幕府の言うことを聞かない孝明天皇なんて後鳥羽上皇みたく隠岐に流してしまえばいいだとか、小栗は何事も言うことが極端なんですよね。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад +1

      @@subuya428 北海道でガラクタ飛ばして喜んでるのとか、フランスに飛んだ電子イヤミとよく似ているな。たぶん、そんな人格だったのだろう。

  • @user-pq8ou6cc4p
    @user-pq8ou6cc4p 3 года назад +4

    青天を衝けで小栗忠順公を取り上げていますが、なぜ明治新政府は彼を重用しなかったのか?横須賀造船所が無かったら、間違いなく、日清日露戦争大苦戦または敗北していた可能性大です。また彼は訪米した時に唯一アメリカ人から一目置かれていた人物です。群馬県民よ彼をリスペクトせよ

  • @pontarou01
    @pontarou01 3 года назад +11

    天才だったのに、惜しい。
    生かしておけば良かったのに。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад +3

      はあ?単なるデマ屋だよ。
      陸軍奉行での近代化改革に効果がなかったから、敗走が続いたんだろ。
      デマは徳川埋蔵金で今でも続いている。

  • @user-nr9up4vj7q
    @user-nr9up4vj7q 3 года назад +10

    ドラマでは和泉元彌さんと岸谷五朗さんが演じました。そして、岸谷五朗さんは今回の大河ドラマ「蒼天を突く」では井伊直弼を演じました。

    • @user-hb8ey1jl2j
      @user-hb8ey1jl2j 3 года назад +2

      どうせなら岸谷さんが小栗をやってほしかった

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke 3 года назад +11

    海外に思いを馳せ、散っていった小栗上野や高野長英などに明治維新を体験してほしかったし、
    その後の日本の国家運営の中に入ってほしかった。

    • @subuya428
      @subuya428 3 года назад +3

      高野長英は本当に残念だった。あの時の幕府の所業は許しがたい。
      諸説あるけど、高野の意思を勝海舟が継いでくれたのではないかと思います。

    • @kumosukeponsuke
      @kumosukeponsuke 3 года назад +4

      @@subuya428
      分かってくれる方がいたことに感謝です

    • @subuya428
      @subuya428 3 года назад +4

      @@kumosukeponsuke 高野長英は当時の日本の蘭学者で1、2を争う超優秀な人物でしたからね。
      蘭学者・西洋知識人を一掃した蛮社の獄は日本の近代化を数十年遅らせたと言っても過言ではない。
      生まれてくる時代が数十年遅かったら…とつくづく思います。

    • @kumosukeponsuke
      @kumosukeponsuke 3 года назад +2

      @@subuya428
      あと数年生きてれば、黒船を見ることができただろうに…それを知ったときは何とも言えない感慨になりましたね。

    • @subuya428
      @subuya428 3 года назад +4

      @@kumosukeponsuke 高野長英が幕府に殺された数年後にペリーがやって来ましたからね…。
      それに長英が殺されてから10年後に、日本を追放された師であるシーボルトが35年ぶりに来日しました。
      同じくシーボルトの弟子であり長英の友人であった二宮敬作はシーボルトと35年ぶりに再開しました。
      黒船来航後に一気に蘭学者の需要が高まって幕府はもちろん各藩も他藩出身の蘭学者を雇ったりしてました。
      約20年前に蘭学者を大弾圧していた蛮社の獄は完全に幕府の黒歴史と化しました笑

  • @user-yo4fj3gc8t
    @user-yo4fj3gc8t 3 года назад +6

    彼も日本の未来を考え走ったんだよね😔

  • @user-np4is2zq9o
    @user-np4is2zq9o 3 года назад +13

    TBSと糸井重里のせいで
    埋蔵金の代名詞になった上野介😊

  • @user-rs6cx8jf3v
    @user-rs6cx8jf3v 3 года назад +8

    漫画「花さか天使テンテンくん」の作者、小栗かずまた先生は彼の子孫にあたります。

    • @yh6146
      @yh6146 3 года назад +1

      この人は幕張という漫画で登場していたけど、漫画内での扱いがひどいから本人からのクレームで登場しなくなった。

  • @hyougonosuke
    @hyougonosuke 3 года назад +3

    小栗の家族と奉公人は忠順の没後は長岡で戦い、その後に会津でも戦ったとか。

  • @katsuyama7810
    @katsuyama7810 3 года назад +1

    どうしても大河の影響で渋沢との関係に目が行ってしまいますし、それも当然の関係性なのですが、
    実は三井中興の祖とされる三野村利左衛門との関係についても触れほしいところですね。。。
    小栗の功績については、今はほかのチャネルでも報じていれると思うので、
    それについては触れませんが、道子さんとのなれそめというか素性を知ることができるのは貴重ですね。。。
    小栗にとってかけがえのない人物だったのは間違いないと思います。

  • @nao-kf3xz
    @nao-kf3xz 3 года назад +29

    神社に神として祀ってしかるべき

  • @村田浩-f9g
    @村田浩-f9g 3 года назад +2

    今回の大河に出てくる気がします。

  • @user-ku1dm7oc2p
    @user-ku1dm7oc2p 3 года назад +22

    裏切り者の勝海舟に比べてマイナーだが
    幕末で一番有能な官僚だったな

    • @user-yv3ut1fg3n
      @user-yv3ut1fg3n 3 года назад +4

      勝海舟はもう少し評価されていい

    • @user-ku1dm7oc2p
      @user-ku1dm7oc2p 3 года назад +9

      @@user-yv3ut1fg3n
      勝海舟は小栗を売ったクズ

    • @subuya428
      @subuya428 3 года назад +10

      強硬派の小栗が陸軍奉行並に留まっていたら戊辰戦争は全面戦争になっていた恐れがある。
      旧幕府軍はその圧倒的な軍事力により新政府軍を負かしていたと思うが、内乱が長期化して戊辰戦争の10年前に太平天国の乱で清国が内乱をやってる最中に英仏がアロー戦争を起こしたように日本に権益を求めて列島が食い荒らされていたかもしれない。
      それを恐れた徳川慶喜と陸軍総裁勝海舟が小栗を後送して幕府は新政府との戦争を選ばない道を選び、江戸城は無血開城されて江戸100万の民は救われた。
      旗本としての幕府存続という意味では小栗の選択は正しかったが、日本の国益という意味では徳川慶喜・勝海舟の選択が正しかった。まぁ欧米列強の植民地・領土割譲、租借の憂き目にあっていたら、いくら新政府を倒すことに成功しても幕府存続・はたまた日本の独立が維持されていたかどうかは分からないですがね。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад +2

      @@subuya428
      しかも鳥羽・伏見の戦いで幕府陸軍は敗走した「実績」がある小栗。
      その「陸軍奉行」を務めた実績、結果、成績を示してるヤツが次は「海軍を使って一発大逆転です!」と将軍の前で狂気の叫び。
      慶喜はその時点で気づいた「大嘘つき男」だと。
      幕府を守ろうとした訳では無い、てめえの利権を守ろうとしただけであり、その為には将軍も犠牲にするつもりだったのだ。
      翌日、か、その場で罷免されたのは当然であろう。もし案が採用されても勝海舟はやる気のないまま出撃して、わざと座礁して小栗の野望を粉砕していたに違いない。
      幕末の悪魔、それが小栗忠順。
      それが正体だ。今も悪魔ぶりは発揮されており、徳川埋蔵金で人々を狂わせている。

    • @user-ku1dm7oc2p
      @user-ku1dm7oc2p 3 года назад +2

      @@kasinsatoru
      小栗は鳥羽伏見の戦いには参戦してませんが、その時は江戸にいましたけど

  • @kenkenkenken4490
    @kenkenkenken4490 3 года назад +11

    キレ者すぎて危険視されてしまったかんじですかね

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад +1

      いや孤立化した。そしてウソばかりつくから、勝や他の幕臣からも嫌われた。江戸が危なくなると、さっさと田舎に避難。勝は江戸を守ろうと走り回っていたのに。
      で、地元で不気味な○ルト活動をし始めたので、明治政府に処刑は当然。無実ではなかったんだから、むしろ幕府の衰退に大いに寄与させた悪魔に近い。悪魔は駆逐するべきである。

    • @miketaisen893
      @miketaisen893 3 года назад +1

      @@kasinsatoru どんな嘘をついたのですか?

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад

      @@miketaisen893
      経済活性化させ、人心を安定させます→小判改鋳を悪徳商人とつるみ物価が高騰し大混乱。人心は不安となり治安は悪化。打ちこわしや一揆が頻発。
      陸軍奉行で近代化します→結果 幕府軍各地で敗走。
      米国政府と交渉して、条約を改定させます→金の交換比率の説明に米国は賞賛したが、ただ褒めただけ。改定できなかった。米国から褒められたと、喧伝して改定できなかった事はひた隠しにした。
      そんな嘘つきが「官軍背後から上陸したら勝てます!上様!」と叫んでも将軍や同僚から愛想を尽かされていた。
      なお米国使節の経験でなにかと自慢しており、諌言しても聞く耳を持たなかった節がある。
      そういうのを、糞作りの役立たず、とバカにしたと当時の記録にあるそうだ。
      この姿勢は北海道でゴミばかり飛ばしてるのやら、フランスに逃げ出してヘラヘラ笑ってる奴らの姿勢によく似ている。

  • @縫島正道
    @縫島正道 4 месяца назад +1

    良くまとまっているが、BGMがうるさい。
    BGMがなければ、もっと良くなると思います。

  • @user-ku1dm7oc2p
    @user-ku1dm7oc2p 3 года назад +8

    幕末の山本五十六提督と言われている
    ガトリング家老をお願いします

    • @yh6146
      @yh6146 3 года назад +4

      山本五十六は明治政府をゆるせなかったから、あえて負ける様にアメリカの工作員になった。実際に山本が養子になった山本家は長岡藩の家老と同時に幕府旗本の名門だった。それが犯罪者集団の明治政府に犯罪者として利用処刑されたから五十六にとっては明治政府はなんとしても滅ぼすべき組織だと認識した。

  • @redsnowangel123
    @redsnowangel123 3 года назад +5

    安政六年。目付となり、翌年アメリカに行き、同年帰国して外国奉行となる。
    小栗は米国文明の事物を説き、外国を模範とするべきを論じて、名を広く知られた。
    その後、勘定奉行も務め、よく働いた。
    しかし、俗吏を罵倒し、閣老までもその批評の対象としたために敵を多く作り、小栗が十分に出世しきれなかった原因が生まれる。
    町奉行や軍艦奉行も務め、勘定奉行に復したが、幕府は衰亡の淵にあり、いかに小栗が力んでもどうしようもないところに来ていた。
    「親の病が治らぬと分かっていても、薬を与えないのは孝子の行いではない」といって屈せず、幕府の維持に立ち向かったのである。
    幕府が末路多事の時に当って、どうやって財源を得たのか
    将軍家二度の上洛があり、天狗騒動があり、外国への賠償金支払いあり。
    小栗は財源を諸税に求め、無駄な出費(冗費)を節約したために俗士輩の怨嗟の的にとなった。
    いよいよ財源に窮して幕府の経済官僚は紙幣の増発を計画した事があった。
    小栗はそれを許さなかった。
    不換紙幣の発行をなさず、その禍を後世に残さなかったのも小栗の決断によるところが大きかった。
    小栗は幕府陸軍の強化を策し、数大隊を組織し、いち早く徴兵制度の基礎を作るに着手した。

    • @redsnowangel123
      @redsnowangel123 3 года назад +3

      幕閣におけるフランスの人気は高く、その始まりは宣教師カションと栗本鋤雲との関係であった。
      その栗本が小栗忠順にカションを紹介した。
      徳川慶喜がナポレオン三世から送られたフランス式の第一級の軍装でフランスから送られた馬に乗っている写真は世間に流布され、誰でも知っているが、あれは慶喜がナポレオンに心酔し、自分も将軍を辞めた後は大統領のような地位につき、郡県制で日本を再統一するのを夢見ていた。
      だから大政奉還の前後には西周を呼び寄せ、郡県制について調べていたのである。
      当時の幕閣がフランス色に染められたわけで勝や大久保一翁は遠ざけられた。
      幕府が長州征伐にてこずっているのを、フランスは見かねて援助しようと言い出す。
      クーレの来日によって借款契約成立した。
      租借の600万両はフランスの銀行が出資し、武器軍需品の代価もこれで落とし、その見返りに対日貿易、特に生糸貿易を独占できるということであった。
      しかし、時あたかもヨーロッパの経済界は不況に見舞われ、租借契約は難航した。
      更にまずいことにフランス政府の外交政策が転換したのである。
      そういう中にあって小栗はなおも積極的に幕府の軍備の充実に努めていた。
      フランス造船技師を招き、英仏から多くの器械を買い入れ、多額の資金を投じて、今の横須賀造船所を建設したのは小栗の英断によるものだった。

    • @redsnowangel123
      @redsnowangel123 3 года назад +1

      幕臣の大多数は生き残りをかけて、親仏路線を支持し、薩長を倒す事を考えたのである。
      福沢諭吉もその一人であった。
      後に彼の言う痩せ我慢とはとにかく薩長と一戦を交える事であり、勝海舟のような平和路線は三河武士にあるまじきと少数派であった。
      勝が言うにはフランスの政策が露骨に幕府と接近し、介入するので、その対抗上、イギリスもまた薩長に接近しつつある。というのである。
      もともとイギリス側の視察では幕府に政権担当能力が不足していることを早くから見抜いていた。
      諸藩の不満、攘夷運動の根は実は幕府が外国貿易を独占していることに対するねたみにあり、諸藩は自由貿易を望んでいたのである。
      横浜鎖港をいうのも、幕府が横浜の生糸を独占したいからである。
      アーネスト・サトウがイングリッシュ・ポリシイという論文をジャパン・タイムズに発表した。
      それを日本の書店が勝手に和訳して英国策論という題で刊行した。
      ここでは第一に将軍を大君と呼ぶのは僭称であり、日本の大君の称に値するのは天皇だけである、という。
      幕府は合法的中央政権ではなく、地方政権にすぎない。
      第二に諸大名は貿易を望み、武器を買い入れ、物産を売りたいのにそれを禁止し、妨げているのは幕府である。
      諸大名の領内の便利な港を開こうとしても現行条約としてそれはできない。
      サトウはまだ二十二、三歳でありながら日本語に熟達し、古事記・日本書紀も研究し、日本の歴史における天皇の位置、将軍の役割を的確に把握していた。
      幕府の後押しをするよりもいずれは天皇と直接の関係を結ぶほうがより重要であることを認識できた最初のイギリス人であった。
      薩英戦争の平和交渉以後は薩摩とイギリスは接近し、フランスの力を借りて長州を討とうと幕府の行動を察知した長州もやはり急速にイギリスに接近した。
      慶応二年、プリンセス・ロイヤル号は鹿児島を訪れて島津忠義から歓迎を受けるし、その途中に下関で毛利敬親や桂小五郎と一緒に写真を撮っている。
      こうなると幕末日本は英仏の代理戦争の恰好の舞台となるところであった。
      当時の幕臣のありさまを活写しているのは福地桜痴の懐往事談である。
      福地も福沢と同列でフランスの援助を得て薩長を叩くべし、との主張に与していた。

    • @redsnowangel123
      @redsnowangel123 3 года назад

      慶応四年。
      江戸城最後の会議。
      慶喜は城を出て上野寛永寺へ移り恭順謹慎することを通告。
      小栗上野介が立ち上がる上様の袴にすがって「もう一度、最後のいくさを許されたい」
      と懇願したのを慶喜は振り切って「そちはもう辞めよ」と退職を通告した。
      上州権田村で隠棲したが、官軍に密告され斬られた。
      対して、勝は陸軍奉行並みから陸軍総裁に。大久保一翁は会計総裁に。
      勝は仏公使ロッシュと会談し日仏契約の解除にこぎつける。
      英仏の代理戦争の舞台になることを避けたのである。
      その後は江戸無血開城の立役者となった。
      下級御家人の勝は江戸育ちで博徒らを扱う事にも慣れているから人の気持ちを見抜くことはうまい。
      人と人の調停和解には長けていて人間理解は抜群である。
      慶喜を静岡に隠棲させて上京させなかったのも勝の工作である。
      それが明治三十一年。慶喜が突如、皇居に参内して明治天皇に拝謁できたのも、勝が仕組んだ演出である。
      翌日、慶喜と家達と揃って勝邸にお礼に来ている。
      その際に慶喜の十男であった徳川精と勝家を結びつけるという離れ業をやってのけたのが勝海舟という男であった。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 3 года назад

      @@redsnowangel123
      長いが最後の言葉に本性が現れている。
      「もう一度最後のいくさを許されたい」
      慶喜はバカではない。
      幕府軍近代化を指導してきた立場にも関わらず、全て敗走。
      で、「もう一度」…はあ?何度もあると思うのか?と思っただろう。
      更に「最後」もう一度の最後、矛盾しており、改めて慶喜はこの男のインチキさに気づいた。
      黙って無視したか、言葉を掛けたの両方の説があるみたいだが、多分慶喜の性格なら黙って無視したであろう。
      この男のインチキぶりにうんざりして罷免したのだ。
      勝は「人の気持ちを見抜くのはうまい」…勝の剣術の流派は抜刀する際はもう後がない、つまり死すべき覚悟をした時にするものだったらしい。
      従って坂本龍馬が斬りに来た時も、笑って緊張感を解して、逆に洗脳した。(記録では生首を持った者が勝海舟邸に訪れた事があった事が記されている。それでも勝は動揺しなかった。死にかけた経験があったからだ。また人を斬る事は生涯なかった。)
      変わって小栗は米国使節の経験から、米国の近代化を自慢して、話についていけない者をバカにして、理解できない者を糞製造機、とバカにしたという。
      この人格が幕府を滅亡させた。勝だけではどうしようもなかったろうが、小栗が更に幕府の破滅を早めたと言っても過言ではない。

    • @redsnowangel123
      @redsnowangel123 3 года назад +1

      @@kasinsatoru
      少し外れますが、幕府の「構造的な問題」から話します。
      まず、「征夷大将軍」という称号に問題があります。
      征夷大将軍とは「夷」から天皇と皇国日本を守り、皇国の武威を海外に輝かし、轟かす存在でなければならない。
      そして、征夷大将軍麾下の幕府有司は、それを第一に心得て職務を遂行しなければならない。
      ところが「和親」条約と「通商」条約が締結される。
      アメリカの砲艦外交の成果とはいえ「征夷大将軍」の幕府にとっては、絶対に採用してはならない選択だったのである。
      そのうえに、幕府存立にかかわる重大な政策決定の参考意見を、それまで意見など聞くことがなかった親藩・家門外様大名に求めたことも重大であった。
      これを契機として諸大名のあるものは自己の意見を述べ利害を語り始める。
      いいかえれば体制から離脱して自己を主張し始めるのである。
      また、大名たちの多くは家臣に答申書を作成させたので、彼ら家臣が藩体制なか個人として行動する契機となり、かつ、答申書を作成する立場にない藩士も処士も意見を述べ個人として行動する「志士」が誕生した。
      さらに庶民もこれまで関心を持つことがあまりなかった政治社会をじっと見守り、時に発言するようになったのである。
      つまり、幕末の江戸幕府が御していかなくてはならない社会というのはこのような異様な社会であり、同時に「夷」である欧米列強の政治・経済的要求と彼らが価値をおく国際法に規定された異質な国際社会とも付き合って行かなくてはならなかったのである。
      文久二年。
      慶喜を後見職、慶永を政治総裁職に就けることを要求した勅使大原重徳を護衛してきた島津久光は横浜生麦に散策に出ていた横浜居留地のイギリス人を殺傷した事件。
      薩摩藩が起こした事件であるにもかかわらず、幕府の治安警察の不備とされ、イギリスの強硬な抗議と賠償要求に幕府は屈した。
      その根底には朝廷からの攘夷問題があった。
      朝廷から勅使が派遣され、攘夷の催促と親兵の設置を沙汰し、幕府は受諾せざる負えず、将軍が上洛して上奏すると回答を余儀なくされた。
      これらはやはり「征夷大将軍」という各分論に幕府も縛られていたことを意味する。
      しかし、「和親」や「修好」条約を締結した段階で幕府は名分を失っていたのである。
      条約締結により守るべき外国人を追い払わなくてはいけなくなり、かといって実行もできず、国内法と国際法のジレンマの中に陥ってしまった。
      慶喜は「征夷大将軍」の称号は自らの政治活動の足かせになると考えて、さらに別の役職を模索していたと思われる。
      彼は外国の将軍の称号「大君」に着目する。
      大君(徳川家)を議長として、イギリスの議会制度を導入しようとしていたようである。
      しかし、大君制国家構想を議決する諸侯会議が開かれない。
      これが一番の問題で。
      次第に慶喜は排除されていくのである。
      当時の幕臣たちの多くは江戸幕府の「本質」を見極めることができなかった。
      小栗はできたのかもしれないが、慶喜の政治構想までは理解できなかったようである。
      無能だと言っている訳ではない。
      時代の流れ、なのである。
      定めとも。

  • @鈴木健-r3f
    @鈴木健-r3f 3 года назад +5

    河合継之助もお願いします

  • @user-mt8jf1lk9r
    @user-mt8jf1lk9r 3 года назад +3

    陣羽織陣羽織

  • @user-tomtojerry
    @user-tomtojerry 3 года назад +4

    小栗上野介って言われると分かる

  • @asdfghjkl67246
    @asdfghjkl67246 3 года назад +9

    徳川埋蔵金の噂に関わる人物で有名ですよね

    • @user-ku1dm7oc2p
      @user-ku1dm7oc2p 3 года назад +3

      徳川埋蔵金は横須賀造船所や製鉄所に代わりました

    • @yh6146
      @yh6146 3 года назад +2

      そもそも攘夷志士とかほざいたクズがテロをしていたから賠償金で幕府の金蔵はすっからかん。

    • @yh6146
      @yh6146 3 года назад +1

      そういえば何かの漫画で小栗が徳川慶喜の命令で江戸城の御金蔵の金を密かに持ち出して山奥に隠していた。そして、小栗を処刑した後に明治政府が知ってあわてていた。

  • @user-cx6cx1ri4r
    @user-cx6cx1ri4r 3 года назад +3

    BGMが何か気になる

  • @th-eq9wp
    @th-eq9wp 3 года назад +4

    地元民にやられるのがひどい

  • @TATSU4423
    @TATSU4423 Год назад

    周知のごとく、江戸幕府は莫大な借金をして横須賀製鉄所を造ります。
    その借金のうち約2/3は驚いたことに幕末のわずか4年の間に返済されているのです。
    明治政府になってから、残額の返済に多大な年月を要したことからみて、
    この返済のためには、幕府の金庫を空っぽにしたのでなければ、辻褄が合いません。
    そのような行為が可能であったのは、当時勘定奉行であった小栗忠順しか居なかったはずです。
    小栗忠順が持ち出したとみられる江戸幕府の埋蔵金は、横須賀製鉄所の借金返済に充てられた
    可能性が高いと思われます。

  • @user-ko1vg6jp3y
    @user-ko1vg6jp3y Месяц назад

    小栗上野介が生けていれば明治政府はどうなっていただろうと思う。歴史にたら、ればはないけど残念ですね。

  • @user-ui9ub3so4f
    @user-ui9ub3so4f 5 месяцев назад

    小栗上野介が生来ていれば、総理大臣になっていたと思う

  • @pianochandaisuki
    @pianochandaisuki 3 года назад +1

    東郷平八郎元帥

  • @kanjiobana5816
    @kanjiobana5816 3 года назад +1

    subarashii !

  • @yamatanooroshi
    @yamatanooroshi 28 дней назад

    小栗の領地と赤城山って同じ群馬だけど数十キロ離れてんだよね。
    そこに埋蔵金隠すはずないよね。

  • @eresseeresse478
    @eresseeresse478 3 года назад +2

    後知恵ではあるが、この時に新型の銃を購入して、追加購入の糸口をつけてくれば徳川は薩長連合軍に負けなかっただろうに。

  • @matsuta.
    @matsuta. 2 года назад

    ロス家、ロック家の名前が全く出てこないな🤔

  • @user-sh4ho8fh4k
    @user-sh4ho8fh4k 2 года назад

    行く末を案じていたのにそれを、悋気から小栗の手柄にしたくなかったのでしょうか?新政府の人達の多くはまず我が藩、自分達の出世だけが望みだったのではと思えて実に残念。それがその後の大正、昭和に、更に敗戦に繋がったのではないか、それにしても明治新政府の要人に小栗上野介の存在を認めさせることが出来る立場に勝海舟はいたのではないか?それが出来ていたら海舟も少しは見直したのに、残念です。

  • @user-du8hz7ex8t
    @user-du8hz7ex8t 3 года назад

    大和民族への民族浄化の犠牲者。

  • @tomockinh
    @tomockinh 3 года назад +1

    youtuberって「思います」の前で溜める人多いよね。

  • @user-sh4ho8fh4k
    @user-sh4ho8fh4k 2 года назад

    実におしい人、徳川を超えて新しい国を見据えて、我が国のゆ